滋賀の近江牛専門店・近江牛ステーキ【千成亭】 HOME > 近江牛の歴史
本草綱目には、健康な黄牛の肉は滋養に良いと書かれており、これを反本丸にする製法が次ぎのように書かれている。
「黄牛の筋を取り除き、切断した肉を洗ってから一晩浸し更に三回洗う。さらに酒と共に煮て…」と製法は続き、かなり複雑である。
寛政年間以降、彦根藩から将軍家や諸大名へ牛肉を贈った記録が「御城使寄合留帳」として残されている。いずれも相手方から所望に応じて贈ったものである。寛政9年には、幕府から製法を尋ねられている。このことから幕府、大名が牛肉の効能を認識していたと思われる。
文久3年(1863年)ごろ来日した写真家フェリックス・ペアトが宿場町 厚木の風景を撮影したものです。
右側の店が掲げている看板には、「牛肉漬」「薬種」との表記が見られます。(上に拡大)東海道から離れた厚木で、江州彦根産の牛肉(味噌漬)が薬用として売られていたことがわかる。
横浜開港資料館蔵「F・ペアト幕末日本写真集」
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「桜田門外の変」を引き起こす遠因 彦根肉の味噌漬けを何とぞ贈らせ給へ
井伊直弼は、仏法の教えを忠実に守り牛の屠殺を藩内で禁止する。直弼以前は、将軍家や御三家などに毎年贈られたがピタッと止む。開国問題や将軍後継をめぐって対立する水戸藩主徳川斉昭は、彦根牛の味噌漬が大好物だった。斉昭はいまかと待つが届かない。やがて使者を出し「彦根肉の味噌漬を何とぞ贈らせ給へ」と頼むのである。「牛を殺すことを禁じ、贈りようがない」と彦根藩。「禁じられたのはやむを得ないにしても…格別調べられたく頼むなり」と強談判だが「何分国禁ゆえ」と彦根藩も引かない。「老公たびたびお頼みしたが承諾せず、さすがに不快に思い召される」。これが後年、「桜田門外の変」を引き起こす水戸藩と直弼との不和の遠因だったとする説は、説得力をもって伝えられた。
「まこと食い物の恨みは恐ろしい」
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